
3日目、いよいよメディオラム(
ミラノ)へ向かっての長征の始まりである。早朝のせいか渋滞に巻き込まれることもなく、バスはスムーズに
ローマを脱出してA1(太陽の道)に入る。
かつて、
ローマっ子たちが狭い道へ勝手な方向に車を突っ込み、クラクションを鳴らしあっていたのが嘘のよう。中心部への車の乗り入れ規制が有効なのであろうが、何か寂しくなったと感じるのは運転しない側の人間の勝手さかも。
クラクションで思い出したが、ついでにもう一つ、車についての話。イタリアでは事故はとにかく当てた方が悪い。彼らの運転の仕方は周囲に気を配るなんてありえない。バックミラーは後進するため、サイドミラーは駐車のため(かつて私の乗っていたガレッリのビチクレッタはバックミラーどころかウィンカーさえもついていなかった)。ひたすら前へ、前へ。間があったらさっと割り込む。衝突しそうになったら、アクセルを踏んで車を前にだせ。衝突したら先に飛び出してどなれ。……。

バスはテヴェレ川に沿って北上し1時間あまりでオルテに到着。そこから右に分かれてウンブリアの野に入る。今でこそ鉄道も道路も
ローマ・
フィレンツェ・
ボローニャ
・
ミラノを結ぶ経路が幹線として幅を利かせているが、中世までは
ローマの
ポポロ門
を出て
アドリア海に抜けるこのフラミニア街道(
スポレート・
フォリーニョ・
ペサロ
・
リミニ)が、かつてカエサルも往復した表街道であった。本当は、道筋の
オルヴィエト、
トーディ、
スポレートのウンブリア南部の珠玉の山上都市にも足を運びたいのだが、それは最初にJALPACKに撥ねられた。団体旅行では一度バスを止めて見物すれば2時間のロスになるそうで、「ほんの10分見るだけ」などありえないとか(確かにそれが真実であることを実感させられた)。ひたすらアッシジに向かう。
実をいうと、バス旅行は初めてであるが(団体旅行も)、実に快適な旅である。特にウンブリアと
トスカナの美しい大地をのんびりと眺められるのは最高である。過ぎ去る景色を眺めながら、ガイドの説明に飽きたら眠ればよい。(かつて、オートバイを運転しながら一瞬眠ってしまい対向車線を走っていたのも確か、このあたりである。)

かつて、この地方はラテン人と同系統のウンブリ人が支配していた地域であるが、前300年ごろ
ローマの支配下にはいった。民族大移動の後は東フランク王国、神聖ローマ帝国の支配下にあったが、支配とは名ばかりでそれぞれの街がコムーネを作り都市国家を形成した。街は国家である。
イタリア人同士でよく「どこの国出身ですか?」という挨拶が交わされるのに驚かされるが、「ミラネーゼ(
ミラノ人)」「
ダヴィンチ(ヴインチ村出身)」というような答えを聞いて納得する。
アッシジもそういった都市国家の一つで
アペニン山脈の南側の斜面に迫り出した峰の上に作られた山上
城壁都市である。11世紀初頭にはコムーネが成立、テヴェレ川をはさんで
ペルージアと争いを繰り返す。
どうも、戦いが下手であったらしく城壁をがっしり作り、頂上部分にはロッカ・マッジョーレ(大砦)、東端にはロッカ・ミノーレ(小砦)、西端に
サン・フランチェスコ寺院が城塞のような基壇の上に建っている。とにかく遠景の美しさではイタリアで1、2を争う街である。
ロッカ・マッジョーレは1367年枢機卿アルボルノスが、13世紀に
スポレート公がフレデリックU世(
シチリア王、神聖ローマ帝国皇帝)の侵略に対抗して作ったかつての城の上に築いた砦である。四角い天守と多角形の塔(ピオU世の塔)を擁し、塹壕をもつ長い直線的

な城壁で繋いだ形態は専守防衛に優れている。街を取り囲む市壁の一番高い部分にあり、裏は切立った険しい崖となっており、最後の砦という印象が強い。ここから眺めるウンブリア平原の眺めはとても素晴らしい。宿敵、
ペルージアの町が対岸の丘の上にくっきりと見え、これでは対抗意識が否が応でも高まるであろう。

街は中世がそのまま取り残された佇まいで、石を積み重ねた壁の民家が、狭い石畳の路地に重なり合うように続いている。ところどころぽかっと視界が開け、ウンブリアの緑の大地が広がる。1階がほとんどみやげ物店に占拠されていて、カラフルなデルタ焼きの水差しや皿が並べられている。観光地としては致し方のないことで、逆に、このカラフルさがなければ寂しすぎる。勿論、この街も車の進入が厳しく規制されており(今回の旅行で特に印象に残っている一点)、のんびり歩いて散策することが出来て、街本来のスケール感を味わうことができた。
写真提供 ●山中和正氏 ■東伸宏氏◆中城正堯氏
