
●『最後の晩餐』はミラノのグラッツェ教会のダヴィンチの作品で有名であるが、私が訪れた時は修復の真っ最中で実物を見ることができなかった。イタリアの美術品の修復
技術と技術者養成のシステムは世界一と言われているので、再び訪れる日を楽しみにしている。
●ヴィンチ村出身のレオナルドが描いた食堂の落書きはすっかり綺麗に修復されていた。その上厳重な警戒体制まで敷かれ、照明も絵の具の劣化を防ぐために制限され、近寄りがたい神々しさで接することができた。
かつて、25年以上も前に来たときは、部屋(食堂)の片隅で粗末な足場と幌をかけて修復していたのをその傍まで行って見ることができたが、変われば変わるものである。
1482年、ミラノにたどりついたレオナルドは、ルドヴィコ・イル・モーロ宛の自薦状で橋梁架設、河川灌漑、弾薬や投石器や戦車の製造、宮殿建築、彫刻、絵画を誇っており、ショーや宴会の演出、女性の帯のデザイ
ンまで手がけている。83年にはルーブルにある『岩窟の聖母』をサン・フランチェスコ教会の祭壇画として描き、その時用いた明暗法で1495年から97年にかけて『最後の晩餐』を描いている。残された沢山のスケッチや走り
書きを考えるに、どうもレオナルドは物事を発想することのほうが好きで、絵を描き上げる作業は軽蔑していたようである。この時も迅速な作業を必要とするフレスコ画ではなく、何度も描きなおせる油絵の技法を用いた。
このために色は褪せ、絵の具が剥落してしまった。
(絵葉書美術館-3最後の晩餐より)

●フィリッピーノ・リッピ(1457-1504)はその名の示すとおり(inoの接尾語は小さいを表す。小フィリッポという意味)かの有名な破戒僧フィリッポ・リッピと駆け落ち相手のモデルの修道女ルクレティア・ブーティとの息子であり、父の弟子ボッチチェルリの弟子となって画家として認められる。
初めの頃はそのことを知らず、同じリッピなのになぜ画風が違うのか不思議に思ったのであるが、inoという文字を読み落としていただけであった。どちらかというと父のフィリッポや師匠のボッチチェルリの影に隠れるような存在であるが、1500年前後の時期、
フィレンツェの有力者の庇護を受け、ヴェッキオ宮殿の祭壇画やバディア修道院の聖ベルナルドの幻視などを手がけ、フィレンツェ画壇の寵児となり、ローマにも呼ばれヴァティカンのカラファ礼拝堂の壁画(フレスコ)も手がけた。
彼の描く絵は繊細過ぎて、マニエラに走りすぎているきらいも無くはないが、二人の巨匠が身近にいればさぞやり難かったと思われる。
(絵葉書美術館-11聖母子4より)