どうも、根が下品にできているのか、アダムとイブの話題になると『無花果の葉っぱ』が一番先に思い浮かぶ。高校の世界史の教師が反宗教改革の授業の際に『全てのイブの前を隠してしまった』という話の印象があまりにも強く、しっかり記憶中枢に鎮座ましましてしまった。
当時はまだ『平凡パンチ』が世に出たばかりで、水着姿のグラビアを食い入るように見ていた田舎の高校生には、無花果の葉っぱの裏側の世界が、そのまま西洋文明に合致してしまった。見たくもないヘアーヌードが一般週刊誌に氾濫している昨今では考えられないことかもしれ
ない。
ウフィッツィに並んで懸かっていた
デューラーと
クラナッハの2対の絵画はこの美術館を訪れる人達に一服の清涼感を与えている。

北方系の研ぎ澄まされた筆使いと色や、その題材のわかりやすさが、イタリアルネサンスに圧倒された鑑賞者の目を癒してくれる。
尚、
デューラーが同じ時描いた一対が
マドリッドのプラド美術館にもあり、驚かされた。(左:
デューラー(Uffizi、Prado)、右:
クラナッハ)

『旧約』を『旧訳』と長いこと思い込んでいたくらいの工事屋にとって聖書の世界は難解である。過酷な自然環境の中で生き抜いていかなければならない民族にとって、唯一絶対の神との間に結ぶ契約は生きる指標になったであろう。神の恩寵を伝える予言が伝えられ、契約で
ある以上行動を規制する律法が生まれ、それを正当化する歴史が語られた。
そういったものの集大成が『旧約聖書』であり、前2世紀ごろ正典化され、ユダヤ教の経典となったという。しかし、滅亡の危機ある民族にとってはあまりにも厳しすぎ、救世を求める声に迎合するかのように『全ての罪を背負ってくれるメシア(救世主)』キリストを生み出し
、『
新約聖書』が付け加えられキリスト経典ができ、世界中に広まっていった。一方、取り残されたアラブ世界でも、7世紀にはモハメッドによる『神の啓示(コーラン)』が付け加えられイスラム経典となった。
今、発生した場所でいがみ合っている三つの価値観がもとは同じルーツから生まれてきたと思うとあほらしくなる。
先日、NHKの『シルクロードの旅』を見て、初めて知ったことであるが『大乗仏教』の考え方は、キジル王国の王子であった鳩摩羅什(くまらじゅう)が、自国が滅び去る過酷な運命の中で悟った信念をサンスクリットで書かれた仏教源典を翻訳する際にちりばめて生まれた
新しい思想であったという。解釈によって幅広く対応する。宗教とは融通無碍の世界かもしれない。