ヘロデ王の幼児虐殺をヨゼフの夢で知り、難を逃れるためにエジプトへ避難した
聖家族は、王の死後イスラエルにもどりナザレに住み、キリストは成人し
サン・ジョヴァンニよって洗礼を受ける。
それから、布教活動に入り、数々の奇蹟や秘儀を行い、
福音者や
使徒を召しかかえ、やがてエルサレムに入城する。
しかし、最後の晩餐の後、イスカリオテのユダの裏切りにあい捕らえられ、ユダヤ総督ピトラの命で死罪となる。
キリストの生涯の中で最も物語性のある場面であるが、以外とそれらの作品は少ない。ある意味で、特色ある弟子達の陰に埋没してしまったかのような感じがする。また、中世のマリア信仰に吹き飛ばされてしまったのかもしれない。
そんな中、『最後の晩餐』は
ミラノの
グラッツェ教会の
ダヴィンチの作品で有名であるが、私が訪れた時は修復の真っ最中で実物を見ることができなかった。イタリアの美術品の修復
技術と技術者養成のシステムは世界一と言われているので、再び訪れる日を楽しみにしている。(画像は修復前の絵葉書)

ヴィンチ村出身のレオナルドが描いた食堂の落書きはすっかり綺麗に修復されていた。その上厳重な警戒体制まで敷かれ、照明も絵の具の劣化を防ぐために制限され、近寄りがたい神々しさで接することができた。
かつて、25年以上も前に来たときは、部屋(食堂)の片隅で粗末な足場と幌をかけて修復していたのをその傍まで行って見ることができたが、変われば変わるものである。
1482年、
ミラノにたどりついたレオナルドは、
ルドヴィコ・イル・モーロ宛の自薦状で橋梁架設、河川灌漑、弾薬や投石器や戦車の製造、宮殿建築、彫刻、絵画を誇っており、ショーや宴会の演出、女性の帯のデザイ
ンまで手がけている。83年にはルーブルにある『岩窟の聖母』をサン・フランチェスコ教会の祭壇画として描き、その時用いた明暗法で1495年から97年にかけて『最後の晩餐』を描いている。残された沢山のスケッチや走り
書きを考えるに、どうもレオナルドは物事を発想することのほうが好きで、絵を描き上げる作業は軽蔑していたようである。この時も迅速な作業を必要とする
フレスコ画ではなく、何度も描きなおせる油絵の技法を用いた。
このために色は褪せ、絵の具が剥落してしまった。